美味兎屋 ep.1 : 啾啾ト哭ク赤イ布
少年エース×カクヨム「漫画原作小説コンテスト」にエントリー中の作品「美味兎屋」より、エピソード1を転載します。
----------------------------------------------------
「美味兎屋」
episode 01 : 啾啾ト哭ク赤イ布
私は悔しかった。そして途方に暮れていた。
誰に怒りをぶつける事も、愚痴を言う事もできない。ただ、白いままの自分の手を握り締めるだけだ。私は何も出来なかった。意気地なしと言われても仕方なかった。それでも、何とかしたいと思っていても、本当に自由が利かなかった。それに、私が何かをしたとして、あの状況が何か変わっただろうか。変わったとしても、より悪い方向でしかなかったと、私は思う。
一流と言われる大学を出ても、こんな状況を変えることはできやしない。今をときめく某科学研究所に入所し、先端技術研究の主要メンバーに抜擢された。他人が見れば羨むようなこの経歴すら、これっぽっちの役にも立ちやしない。やりたい事を我慢し続けて、やっと大学を出ても、得られたものは何もなかった。
何も、だ。
漸近科学――それが今、私が研究している科学だ。どんなに頑張ったところで接触できない。近付いている実感はあっても、紙一重の差で手が届かない。そうとわかっていながらも、その実体を見ようともがき、あがき続けるだけの学問だ。そうとわかっていながらも、その行為の依存性から抜け出せない。いつかは掴めるかもしれない、それに最初に触れるのはもしかしたら自分なのかもしれない。そんな夢とすら呼ぶことの出来ない、薄弱な妄想に囚われ、逃げられない。そんな中毒性のある学問なのだ、漸近科学とは。
こいつはまるで私の人生そのものじゃないか。
ああ、だめだ。
私は首を振って、ため息をついた。
何をどう考えても、自分への言い訳にしかならない。自分の臆病さを弁護するだけだ。あの時、助けられる可能性があったのは私だけだったのだ。そして今、ここにこうしているのは、自分が決めた行動の結果に過ぎないのだ。
私は泣く事もできなかった。この夜中、誰も見ていないとは言え、道路の真ん中で泣くことはできなかった。こんな私にだってプライドはあるらしい。それが滑稽だった。
白々しく光っているコンビニの前を早足で通り過ぎ、すれ違う車から顔を背ける。
私は自分の手の中にあるものを見ることが出来なかった。握り締めることも、手のひらで気配を探ることもできなかった。見た瞬間に、感じた瞬間に、それはより一層悍おぞましいものになっているかもしれない、そんな恐怖からだ。
生暖かい感触が掌から肘へ、肘から肩へ、そしてようやっと脳へと、湿気のように這い上がってくる。感覚が曖昧で、時間の進みも速くなったり遅くなったりする。それは度の合わない眼鏡をかけたまま、ボートに何時間も乗って本を読んでいる時のような感覚だ。
もうじき家に辿り着ける。家への距離に反比例するように、私は歩く速度を上げた。スピードは上がったはずなのに、何故か景色はのろのろと行き過ぎる。苛々した。
遅々として進まない時間の中で、私は嫌な気配を感じた。後ろからあいつらが追ってくる。残っていた獲物をいたぶり、或いは殺してから、私をのろのろと追いかけてきたのだろう。あの腫れぼったい目、だらしのない口許、意味も分からずにコトバのような何かを乱暴に吐き出す舌。
私は急いだ。自分の家に直行するべきか否かを考える。その間にも声は近付いてくる。このままではあいつらに家を知られてしまう。そうなったら終わりだ。このまま闇の中に溶け込んでしまいたい気分だった。この意気地の無い私を飲み込んでみろよ、と心の中で闇を挑発した。
その時――。
「おいお前」
闇が私に呼びかけた。
その声に、思わず足が止まった。ぴたりと。
背中の毛穴全てが、ワイシャツ内の湿度を何倍にも増す。硬直する身体を強引に捻る。結論から言えば、そこにいたのは闇ではなかった。通り過ぎたばかりの一戸建ての玄関先に座り込んでいる、奇怪な風体の男に声をかけられたのだ。奇怪な、というのは、夜中のこの時間に白衣を着て、玄関前に「ただ座りこんでいる」ためだ。タバコを吸いに外に出てきたという様子でもない。ただ、居たのだ。
男は細いフレームの眼鏡の奥から、私と私の手の中にあるものを交互に見遣った。そして生気も感情も見えない視線を私の眉間に止め、立ち上がりながら低い声で言った。
「そのまま帰ったら食われるぞ」
「え……」
私はぽかんと口を開いた……と、思う。
「それに、それをどうするつもりだ」
「どうって……」
確かに、家に持ち帰ったところでどうにもできるわけではない。緩慢な時の中、無意識に眠気を駆逐しながら苦しむだけだ。明日、研究所に行けるかもわからない。
「これだからお前らは困る。意気地もない、後先もない。近づいたと思えば離れていく」
男は近付いてくる声の方向を鋭く睨みつけ、玄関のドアを開けた。
「時間を潰すがいい」
選択肢は無かった。
私は男の家の中に駆け足で上がりこんだ。玄関フードの中、ドアの脇には、真っ赤な看板が乱暴に置いてあった。
そこにはささくれた墨の色で、『美味兎屋』と書いてあった。
びみうさぎや……?
おかしな名前だった。私の手の中に居るものを考えると、その名前は奇妙に歪んでいる。
「ビミウサギヤ、ではない、ミミトヤ、だ」
上下も強弱も無い口調で言いながら、男は奥まった一室へと私を通した。その動作は乱雑で、粗暴でもあった。その大きな部屋に入って、私は初めて疑問に思った。
「え、なんで」
私の考えていたことがわかる?
「ここに来る連中は、あの四文字をこぞってそう読む」
男は横柄に言い、雑多に積み上げられたガラクタの奥で何かを探し始めた。
「ガラクタではない、商品だ。恩人に対して失礼な奴だ」
「あんた、何で僕が何を言う前に答えるんだ」
「どいつもこいつもそう言うから先手を取っただけだ」
男は「よし」と言いながら、工具箱のようなものを取り出した。
「自分を客観視してると思い込んで、その実、自ら超えられない壁を作っている。そこに気付かないから、お前たちはいつまでも超えて行けないと言うのだ」
そして、私の手の中にあるものをひょいと奪い取った。男の言うことは、何かを知っているようでもあったし、その他一般に対する愚痴であるようにも思えた。いずれにせよ、研究内容には守秘義務があるから、問い質すわけにもいかない。
男は私を一瞥し、口を歪めた。
「随分やってくれたな、これは」
「……助かるのか?」
男は治療をしてくれるようだった。
「俺は、お前たちの言うヨグなんとかとは違う。何でもかんでもをカクノゴトクにできるわけじゃない」
男の言葉は、私の感覚の斜め上を飛んでいく。しかし、男の手際は素人目にではあるが極めて良く、着実に治療が進んでいく。半分飛び出した目玉や、裂けた腹に折れた手足まで、白い布の奥で元通りになっていくのがわかった。
元通りに――。
待つこと一分、いや、十分。
男の手の中には、赤い布の塊があった。ぴっちりと巻かれた白かった布が、赤く染まっていったのだ。申し訳程度に開いている穴からは黒い鼻のようなものが覗き、布の隙間からは、舌のようなものが何枚もはみ出ていた。
「さてこれでいい」
「これで……って布を巻きなおしただけじゃないですか」
「問題があるか?」
男は私にそれをさっと手渡すと、奥のソファにどっかりと腰をおろした。一仕事終わったといわんばかりのくつろぎようだ。
「布を巻いたし、飛び出していたものは元に戻した。そのうちそれは鳴くぞ」
男がそう言った途端に、私の手の中のそれがにゃぁと鳴いた。
それの元の形は確かににゃぁと鳴いて然るべきものだったかもしれない。
しかし、私の手の中にある、真っ赤な布の奥のモノがにゃぁと鳴くのはあまりに奇怪だ。
赤い布の奥で、かつて飛び出していた綺麗な青いものがひしゃげていた。
私は息を吐けない。目を逸らすこともできない。
その青いゼリーのような球体はひしゃげながら、ぐんにゃりと私を写していた。私のシルエットは影になって、その中で黒々と脈絡なく曲がっている。布越しでもそれがわかった。瞬きができない。まるで度の合わない眼鏡をかけて金魚鉢の中の水草を眺めているかのように、その濁った青い目のようなものに写りこむもの全てが歪んでいた。
それがもう一度にゃぁと鳴く。その声は長く残り、私の関節という関節に刺さり込んだ。
「どうした?」
男の疑問文は語尾が下がっている。
「お前が助けたいと思ったモノだぞ、それは」
男は頬杖を付いて、口の端を吊り上げて私を見ている。眼鏡の奥の眼光が刺身包丁のように鋭かった。
思えば何もかもが奇怪だ。さっき外で私を追いかけてきていた声はすぐ後ろで聞こえたのに、姿はなかった。私がこのモノを拾ったのは、誰も居ない道端だ。そういえば、この建物はこんなところにあっただろうか。この部屋は、建物の割には広すぎた。そしてどういうわけか、この男は、私のココロを読んでいる。
私は何もわからない。
目の前には
極端に度の合わない眼鏡をかけて見てきた風景を、一所懸命に説明しようとしたって、そこに見えるのは漠然とした色の配置だけだ――今の私は、まさにその状態だった。
男は私をじっと見ていたが、前触れも無く退屈そうな表情をして訊いてきた。
「それは何と鳴いた? ん?」
今度は語尾が気持ち上がっている。
「何とって……鳴いたでしょう、にゃぁって」
聞こえなかったはずは無い。しかし、男は大袈裟に肩を竦めるだけだ。私は腹が立った。男は眼鏡の位置を直しながら、抑揚のない声で確認してくる。
「本当に、そいつはにゃぁと鳴いたのか。それが、にゃぁとでも」
「だってほら、元々この子は」
くぅん、と手の中の赤いモノが鳴いた。
くぅん、と鳴いた。もう一度鳴いた。確かに鳴いた。
「それはにゃぁと鳴くのか」
「いや、くぅんと鳴いた」
私は
しかし、今はくぅんと鳴いている。そしてもう一度それは鳴いた。
「くぅんと鳴いた……」
くぅんとにゃぁは共存しない。ヒトツの固体からは出てこない二種類の音だ。
「それはくぅんと鳴いたのか。今度はくぅんだと言うのだな」
男が言い、私は頷こうとした。
その時、それはほーほけきょと鳴いた。それはそれは流暢なほーほけきょである。
私は悲鳴を上げてそれを落とした。音もなく落着したそれは、埃のうっすらと積もった床でのたくった。私は腰を抜かす。視点が下がり、床の埃がつぶさに見えた。中折れブリッジのような体勢の私に向かって、それがにゃぁ、にゃぁ、にゃぁと鳴きながら這い寄ってくる。
私は尻を引き摺りながら後退したが、背中が書棚に当たってしまった。もうこれ以上は無理だ。さがれない。じわりとした埃が雪のように肩に積もった。埃の溶け込んだ部屋の空気が、目障りに輝く。
それはくぅんと鳴きながら、カサリカサリと床を這う。頭の中が赤と黒と閃光に塗りつぶされる。未だかつてこんな不気味な経験をしたことはない。それは遂に私に到達し、私の腹に飛び乗った。重さのないそれは、そしてそのまま私の顔にまで至る。ほーほけ……
「ふむ。その辺でいいだろう」
私の顔に今まさに黒く湿った鼻をつけようとしているそれを、男はひょいと取り上げた。鉄の臭いが私の顔の辺りにじんわりと広がっていく。意思とはまったく無関係にこみ上げる嘔吐の前兆に、私は口元を抑える。赤い布は男に摘み上げられながら、私の方を歪んだ瞳でじぃっと見ている。
「そ、それはなんなんだよ! そんなんじゃなかった、それはそんなんじゃなかった」
「じゃぁ、なんだったというんだ」
男はその赤いモノを掌の上に乗せている。それはおとなしくそこに座っていた。
「そんなんじゃないとは言うが、これは多分ずっと以前からこんなものだった」
男は言ったが、私はもう一度、無駄とは思いながら訊いた。
「それはなんなんだ」
男は眼鏡のレンズを埃っぽく光らせながら、口を絵に描いたようなにやりというカタチにした。
「そうだな」
男はその赤いモノの顔の端を少し摘み上げながら、それを観察した。そして、その『顔』を私に向けた。
「お前じゃないのか? 強いて言えば」
赤い布が
私の視界が赤い布に覆われて消えた。
続きはこちら!