南極点のピアピア動画
というのを書店で見つけて衝動買い。
ネットではたびたび見かけていた本作ですが
なかなか時間を取れない事もあって
(自分の作品やサイト作りでいっぱいいっぱいである)
保留案件になっておりました。
とりあえずラッキーが重なって、
ある程度集中して読める状況になったので。
登場してからすぐに巻き起こったムーブメントにはガッツリと乗っかり
2年目くらいまでの曲の大半は把握していると自負しているくらいには
ミク廃である自分です。
Q. ボーカロイドに心はあるのか?
A. あるように見える。
そんな感覚を漠然と持っていました。
それはコンテンツ(動画など)製作者の技術や想いの反映にすぎない。
最初はそう思っていましたが、いや待てちょっと違う。
ある事に気が付きました。
それはユーザの「視線」なんですよね。
動画を見て「~と思ったに違いない」「~と感じる」。
その思いを馳せる先は、コンテンツの主役であるボーカロイドそのものであることもあれば、
製作者(技術部なんて典型です)の情熱であったり。
それらに「共感」した結果、我々個々人の中に生まれてくる
「感動」とかそういうのが「心」なんだろうと。
だから、強制された感動には「企画」しか見えず、共感できない。
その一方で何気ない日常の事とかが投影されると
例えそれが技術的に未熟なコンテンツであったとしても
共感、そして感動に繋がっていく。
そこにいる「コンテンツの主役=ボーカロイド(たち)」に
個性が生まれる。まるでそこにいるかのように見える。
と、ここまでだと、単に二次元萌えな見解で終わりますが、
この思いを決定的にしたのが、あの小惑星探査機「はやぶさ」です。
twitterやmixiではしつこいくらいに「はやぶさ」への思いを書いております。
何度泣いたかわからない。
帰還のときは、動画に張り付いて、
突入の時のあの輝きも、野尻さんの報告も聞いていました。
ラストショットはPCの壁紙です。
はやぶさには「心」があったと私は信じています。
でも、その「心」は何から生まれて、どこにあったのか。
それを考えると、やっぱり「(はやぶさではない)人」から生まれて
「我々個人の中」にあったのではないかと。
はやぶさを支えた川口教授をはじめ、
そこに関わった無数の人たち。
打ち上げ前の準備、打ち上げ、スイングバイ、目標到達から観測、そして離脱。
帰還。
その全てに固唾を飲んで見守っていた人がいる。
行方不明になったときも、絶望的な気持ちがあっても
はやぶさに思いを馳せていた人がいる。
本来は地球にカプセルを届けたあと、また別の旅路を歩むはずだった「はやぶさ」が
地球に突入しなければならなかった事に涙した人がいる。
川口教授だって、あの突入の映像は見れなかったと仰っています。
それほどまでに人々の「思い」を集めた。
そしてそれを観るわれわれは、その「思い」を見た。
まさに「心」を見た。
それは人々由来かも知れないけれども「はやぶさ」がなければ
そもそも存在できなかったことで。
そして「はやぶさ」を見て聞いて、知る事で得られる共感でもあって。
ということなら、これはもう、「はやぶさの心」と
言えない理由はないように感じるのです。
心は心でしか知覚できない。
もし、何かに心を感じたなら、
それには心があると言っていいんじゃないでしょうか。
UGCという概念、
実は「こころ」を生み出す概念なんじゃないでしょうかね?
そんなことに思いを馳せる作品でした。